小説:朦朧

知里弥生の無気力日和

※この小説はフィクションです。

ゆらり。
地面が揺れているのか。田圃が波立ち、木々がぐらつく。
ゆらり。
足を広げて踏ん張ってみる。身体は支えきれず、フェンスに体重を預けてしまう。
ゆらり。
身体がずり落ち、地面に落ち込んだ。見上げると、空が揺れた。月がまるで勾玉のように歪む。
ぐにゃり。
「……あぁ」
霧が出てきた。空気が拉げた。音が曲がった。
もしかしたら、異常なのは自分なのかもしれない。
「……いか、なきゃ」
無理矢理立ち上がる。覚束ない足で、震える腕で、重く垂れる身体を支えながら。目を向けた先は暗闇。その彼方には、一点だけ仄かな光があった。
一歩一歩進み出す。前へ進んでいるかどうか、それは分からない。それでも踏み出すしかない。幸いにも目印があるので、近付けば分かるのだ。それなら、行ける。否、行くしかあるまい。
まるで蘇った死者の如く擦り寄る。その異様な光景が目立たない訳もなく。
「おい、弥生ちゃんどうしたよ!?」
大声が響いた。光の中から、何かが駆け寄ってくる。
それを見て、今にも事切れそうな女性――知里弥生は渾身の力を振り絞って、一言だけ発する。
「……お、おでん」
そのまま、闇の中へ落ちていった。

「全く」
愚痴を零しながら夜道を歩く者が一人。コツコツと堅い靴底を鳴らし、僅かに苛立ったテンポで。
黒髪の美女だ。歩く度に長い髪がふわりと広がる。真っ白なドレスにも思える洋服は深夜でも映え、幻想的だ。
周囲の寂れた風景と比べて、明らかに解離しているそれは、架空の存在とも生きた人形とも捉えられる。極稀にすれ違った人間は、その異質さと魅力に誰しもが振り返った。
構わず、女性は進む。
薄暗い路地を進み、開けた田園を突っ切り、草臥れた宿舎を横切り。
やがて辿り着いたのは、ぼんやりと明かりの灯る屋台であった。女性の風貌とは余りにも似つかわしくないそれは、暖簾に「おでん」の文字が記されている。
屋台の椅子に、汚いロングコートを着た人間が座っている――否、突っ伏しているのが見て取れた。
「大将さん、来たわよ」
「おぉ、すまんね沙娜ちゃん。わざわざ来てもらって」
暖簾を潜ると、鉢巻をつけたがたいの良い男が頭を下げる。男の目の前には金属の箱があり、仕切られ、多くの具がぐつぐつと煮えていた。
沙娜と呼ばれた女性――フルネームは霧崎沙娜(きりさきさな)という――は、適当な椅子に腰かける。大将は熱い日本茶を差し出す。
「ありがとうございます。それで……」
そして横を見れば、良く見知った顔の女性が台の上に頬を付けたまま何かを咀嚼している様子があった。
「本当にもう……大将さんに迷惑かけまくってんじゃないわよ、弥生さん」
悪態を吐くが、反応は無い。目は虚ろで焦点が合っていない。ただ只管に口を動かしている。弥生の目の前の皿には厚揚げと大根が入っていた。
「いや、本当ごめんな沙娜ちゃん。今のご時世こんな親父が女子大生を家まで運ぶわけにもいかんでな」
「いえ、こちらこそご迷惑をお掛けしまして。というか、これ女子大生? 妖怪でしょ?」
「不気味だけど別嬪ではあるからなぁ」
「不気味が真っ先に来てる時点でアウトよ」
沙娜は徐に弥生の首元を触った。異様に熱を感じる。尋常ではない高熱だ。どうしてこのような病人が辺境にあるおでんの屋台にいるのか、それは全くの謎であるが実際にいるのだから考えてもどうしようもない。
取り敢えず、何か注文しようと思った。これだけ迷惑をかけているのにお金を落とさないのはバツが悪い。
「大将さん、大根とがんもどきと卵。それと何かお勧めのお酒を下さいな」
「へいよ。酒はそうだな……お、今日は赤霧があるよ」
「良いわね。お湯割りで貰おうかしら」
ふぅと一息ついて、沙娜は弥生を眺めた。宛ら死体である。半分開いた瞼から覗く紫の瞳が悍ましい。たまに緩慢な動作で動き、頭を持ち上げては力尽きて落下する。更に乗っている具は減らず、熱量だけが徐々に放出されるだけである。
と、沙娜の目の前に湯呑が置かれた。もうもうと湯気が上がる。蒸気に乗った酒の気に、一瞬くらりと揺れた。両手で湯呑を抱え込み、僅かに唇を付けて、少しだけ含む。それを口の中で暫く転がす。鼻から抜ける芋の香りがほんのり甘い。
「……良いわねぇ」
「焼酎飲む女子なんて中々いないよ」
「私はそこの死体の影響よ」
酒の匂いに気が付いたのか、弥生の目が少しだけ開いた。そして這い寄るように手が伸びてくる。
沙娜はため息を吐きながら、その手にそっと湯呑を握らせた。
「本当にこの馬鹿は意地ばっかり張ってて……一杯だけよ」
「……月が綺麗だね」
「残念ね、雲が翳ってきてるわよ。だからさっさと体調治しなさい」
詩人だねぇ、と大将は笑っていた。
熱にうなされ、酔いが回り、ぐらりぐらり。
屋台の周りはぼんやりと霧のように、朦朧としていた。

続く。

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