小説:檻

知里弥生の無気力日和

ふと、独りで考え事をしたい時がある。
ふらりと研究室を抜け出し、外へ。新月の夜は暗く、蜘蛛の巣の掛かった明かりが薄暗く辺りを照らしている。
静寂だ。
この深夜、大学に居る者は殆ど居ない。人の気が無い。それはある意味で非日常をひしひしと感じさせられる。
暫く歩いた。大学の外れまで。工学部を抜け、道路を踏み越え、辺境にある低温センターまで。
外灯すら無い。これでもかと言うぐらい真っ暗だ。
「……ふぅ」
自動販売機で缶コーヒーを買い、進む。暗闇の中を。
そして適当な所まで来ると、ガードレールの上に腰掛けて一息吐いた。
物思いに耽りたい事は、誰だってあるだろう。彼女だってそうだ。妖怪やら何やらと噂される、知里弥生と言えども人の子である。
何があったのだろうかと、それを思い出すのさえ億劫になる。悲しいことでもあったのだろう。辛いと感じたりもしたのだろう。そういう感情は、不具合の元だ。
だから、捨てに来た。
「あー……やだやだ」
ちらと背後を見やる。竹林だ。カラカラと乾いた音を立てて語りかけてくる。
余計に陰鬱になった気がした。
夜空を見上げた。星々が瞬いているが、暗い。そうだ、所詮は星屑である。小さな者が幾ら努力をしたところで、場違いな者がどれだけ輝こうと頑張ったところで、報われる筈も無いのだ。
僅かに、視界が滲んだ気がした。
コツコツと、音が聞こえてくる。硬い地面を踏んで、規則正しく鳴る足音。
姿は見えず。星明かりはやはり無能である。足音は段々と近付いてくる。
弥生は息を飲んだ。暗闇より来たる謎を恐れる妖怪など、滑稽を通り越している。しかし何度でも言うが、知里弥生は人の子である。
やがて、闇が明けた。
男が立っている。灰色のコートを着た男。前髪の間から片目を覘かせ、まるで睨むかのような眼差しで弥生を刺す。
弥生はその男を、良く知っていた。
「木見(こうみ)か。何でこんな時間に?」
「同じ質問を返そう」
鋭い返答。弥生は参ったとばかりに白旗を揚げる。
「物思いに耽ってた」
「似合わない」
「でしょうね。そっちは?」
木見と呼ばれた男は、徐に弥生の隣に座った。
そのまま、沈黙。
コーヒーを流し込む。夜風に曝され、既に熱は奪われている。それは非常に不快な味を呈している。
それでも、どこか落ち着いていた。少なくとも、ここに来る前よりは。
そう思った。思い込んでいた。思い込みたかった。
「答えは?」
「……竹の声を聴きに」
からころ、からころと囁いている。遊ぼう、おいでと呼んでいる。――そんな、気がする。
背筋が凍った。振り返れば、暗闇。
ずっ、と手が伸びてきても文句は言えないだろう。
本来は違う筈なのだ。竹藪は、檻なのである。隔絶し、遮断し、迷い迷わせ追い返す。
しかし、檻の真なる目的は、何かを閉じこめる所にある。
「……寒っ」
あの音が聞こえた。寂しげに啼く風が。
ひう、ひうと。
木見の方を見れば、そこにあるのは穴だった。ぽっかりと、胸の真ん中に穴が。何かを欲するように、何かを求めるように。
――あぁ。
堪りかねて、弥生は泣いた。暗くて、五月蠅くて、寂しくて。
螺旋に渦巻いたぐちゃぐちゃの感情が、竹の檻へと逃げていく。からん、と乾いた音を立てながら。
「似合わない」
「……うるひゃい」
空洞から漏れる音に、震える声で返した。可能な限り乱暴に。
目の前の虚空に浮かんでは消えていく。それが何かは認識できない。白い靄だか、青い霧だか、赤い蜃気楼だか。理解できるモノではないし、理解しようとも思わない。
ただ、涙を流すしかなかった。
木見は鴛の如く黙ったままだ。虚ろな目が何を覘いているのか。空いた虚空が何を望んでいるのか。
自分の事でも無いのに、悲哀が伝搬していた。そしてそれは、心底腹立たしかった。
「全く関係無い癖に、泣かすな」
「そちらが勝手に泣いているだけだ」
辛辣。正論。
暗闇にあてられて、気がおかしくなっただけかもしれない。
いつの間にか、風はぴたりと止んでいた。

続く。

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