小説:鈍感

知里弥生の無気力日和

黒無陣矢は、自らの置かれている状況を把握できていない。

そもそも、自分が今どうなっていて、どのように思われていて、どのように行動するべきか、それを理解している人間が果たしてどれほど存在するのだろうか。

少なくとも、ただ日常を漠然と生きている大学生等は、状況判断など出来ない(あるいは行わない)。これは断言しても良い。

休日の夕方に起きて徐にお湯を沸かし珈琲豆を挽き暫くその香りの余韻を楽しむ。それにかまけて疎らに降る雨を見逃し、干していた洗濯物は台無しになる。おまけにドリップ用の紙フィルターが切れているのを発見し落胆する。

ほんの身近な状況ですら、まるで読めたものではないのだ。

気付けば空腹だ。17時間も惰眠を貪っていたのだ、当然である。

冷蔵庫を覗くと、まっさら。冷凍庫の方はと言えば、ビニール袋にくるまれたトレイが一つ。

「鶏肉」

そういえば、一昨日買ってきていたのだ。ひょんな気紛れから料理がしたくなり、購入してきた。だが結局その日は家に帰るまでにやる気が削がれ、インスタント麺で過ごしたのを覚えている。

今日はどうであろうか。先程珈琲豆を挽いて意気揚々としていたところだ。肝心の珈琲はフィルターの不在で淹れられない。この余力をどこにぶつけるべきか。

やることは決まった。

鶏肉を外に出して溶かしておく。その間に何か使えそうな物を探し出す。

「……サラダ油に醤油、みりん、砂糖、塩、片栗粉、焼き肉のたれ、生姜と大蒜」

薬味と調味料ばかりだ。だが大学生、しかも男の家に期待する方が間違いなのだ。

限られた材料で最適解を導き出す。解答はすぐに出た。

「竜田揚げだな」

生姜と大蒜を擦り、醤油とみりんに暫く漬け、片栗粉をまぶして揚げる。簡単な上に美味い。油の処理が面倒という一点を除けば。

「いや」

失念するところであった。黒無は思い出す。

黒無が住むこのアパートは、岩木荘という。築五十年の木造で、今にも崩れかかりそうだ。外観は廃墟一歩手前。家賃は安く、中学生の小遣いでも手が届きそうなレベル。それなのに、部屋は大半余っている。

この部屋は二階の中央で、左右の部屋には誰も住んでいない。時折ラップ音とも思しき音が聞こえる事もあるが、幽霊でもいるのだろう。

そして下の階。真下に位置する部屋。ここが多少問題であった。

妖怪が出るのだ。特に、竜田揚げを作ると、出る。どうやって察知しているのかは不明だが、竜田揚げを揚げ始めると、いつの間にか部屋に居る。まるでぬらりひょんだ。

一瞬、悩んだ。

その妖怪は、よく食べるのである。それはもう、作ったものを八割方。それは多少なりとも困る。

困るのだが、黒無には現状、竜田揚げのレシピ以外浮かばない。一度決めたら枠から外れるのは困難である。

「鶏肉が解凍する前に決めないと」

今から外に出るのは論外だ。誰かに買ってきてもらうべきか。いやそんな図々しいことは出来まい。そもそも、友達が居ない。独りだ。

――これはもう妖怪を呼ぶしかないか。

腹を括った。妖怪に大半を奪われながら、白米をかき込むのも乙だと思われた。

諦めに身を任せた。無我の境地に達すれば妖怪の相手も容易い筈だ。

準備が整い、油を引いて熱する。召還の儀式である。今日は休日なので、恐らく上手くいってしまうだろう。

観念して鶏肉を投入しようとしたところで、不意に部屋の扉が開いた。

「やっほー」

「……おう」

現れたのは、少女。真っ赤なコートを纏い、色素の薄い髪をショートカットにまとめている。表情は快活で満面の笑みだ。

「え、いきなり何?」

「晩御飯作りに来たよっ」

「お、おう。え?」

困惑する黒無を余所に、少女は台所の鶏肉と加熱された油を発見し、大いに喜びを顕わにする。

「お、これって竜田揚げ?」

「うん、そうだけどさ」

「ふむふむ、召還術ね。やっぱり来て正解だったかも」

少女はにんまりと笑い、ビニール袋を広げた。そこには様々な食材や調味料が詰め込まれている。

「いや、そのさ」

「え、何?」

「何で?」

「……作りたいから?」

はぁ、と生返事をして陣矢は諦めた。そういう人間なのだ、この少女は。少なくとも陣矢はそう思っている。
少女は天谷紗香(あまやすずか)という。陣矢と同じ学部学科の大学生である。ちなみに少女という形容を用いたが、勿論彼女は陣矢と同い年である。

紗香は菜箸を取り、弾ける油に粉の付いた鶏肉を投入した。じゅわりと油が鳴り、醤油の焦げる香りが広がる。

  程なくして階段を駆け上がる音が聞こえてくる。音は段々近付いてくる。
  そして扉が開いた。鍵が掛かっていないことを知った上で、躊躇いなく開いた。
  紫色の眼をした妖怪が、そこには立っていた。
「紗香がいる」
「どうもー、弥生さんこんにちはですよー」
  知里弥生が怪訝な顔をするのに対し、紗香は朗らかさが溢れ出る笑顔。それを陣矢は怠そうな目で眺める。
  一呼吸置いて、弥生は言う。
「付き合ってんの?」
「付き合ってないです」
  即答され、一瞬だけ紗香が哀しい目に変わったことに陣矢は気づかない。
「馬鹿だね、あんたら」
  弥生は無遠慮にリビングへと入り込んだ。そこで、何かを見つけて一言。
「米、炊いてないの?」
「「あーっ!?」
「やっぱ馬鹿だ」
  やはり周囲が見えていない。
  二人して頭を抱える様子を眺めながら、やれやれといった表情で弥生は苦笑していた。

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