小説:タイプライター

知里弥生の無気力日和 小説

※この小説はフィクションです。

 

 夕暮れ時である。日か翳り気温は一層下がり、大勢の人間が肩を竦めながら足早に帰路に着く。その中に一人、黒いコートに身を隠して機嫌の悪そうな足取りで歩く女性が一人。
 彼女は手近な書店を見つけると、迷いなく目的の棚を見つける。手に取ったのは月刊の小説雑誌だ。そして徐にそれを開き、暫くパラパラと捲っていく。
「……あった」
 思わず声が出るのは毎度のことである。確認作業を終えると、女性はその雑誌を追加で一冊取り、レジの受付へと持って行った。
「これ下さい」
「同じものですが大丈夫ですか」
「うん、構わない」
 小さな書店なので、受付のバイトは何度も見た相手だった。このやり取りはただのテンプレートであり、意味は殆ど無いに等しい。お互い何も考えていない証だろう。
 書店を出ると、冷たい風。これ以上は外に居たくもないのだが、そうも言っていられない。これは歴とした仕事なのである。
「さて、行くかね。食料も買っていかないと」
 気怠そうな表情で肩をぼきぼき鳴らしながら、女性は僅かに紫色の瞳を翳らせた。
 そこは、深い竹林の奥底であった。
 霧崎神社の鎮守の杜を抜け、如月書店を避けるように獣道を進んだ先である。周囲の光景は最早乱立した縦一直線の群れで構成され、少しでも目を逸らすと途端に方向感覚を失う。
 このような奥深くでは動物の気配も無く、竹からも生気が感じられない。
 相変わらず悍ましい、と女性は思った。
 カラコロ、と揺れる竹が囁いてくる。まるで遊んでほしそうな、しかし拒絶するかのような。どうとでも捉えられるその音を無視し、女性は無心で道無き道を進む。
 日は途中で完全に暮れていた。視界が悪く、転びそうになる。明かりを持ってこなかったことを多少は後悔したが、今後悔した所で事態は好転しない。目が慣れるのを待ってから無茶を承知で突き進む。
 三十分程歩いただろうか。視界の隅にぼんやりとした淡い光が見えてきた。人間にも蛾と同じように集光性があるのだろう、女性は本能的にその光に向かっていた。
 小さな小屋が、そこにはあった。
 光は小屋の窓から漏れていたようだ。時折ゆらゆら揺れ、わずかに煙たい。中で火でも焚いているのだろう。
 女性は入口と思しき引き戸を無遠慮に開けた。
「来たよ、那由多」
「んー……おぉ、弥生か。久々か?」
 家主の間の抜けた声に、女性――知里弥生は思わず脱力する。手にしていた小説雑誌がとさりと落ちた。
 弥生の目の先には、古風なタイプライターに向かって只管に文字を打ち込んでいる、黒い和装の女性が座っていた。

 

 竹林の深淵に潜むこの女性は靖和那由多(さかなゆた)と言う。黒基調の和服――巫女服の類――を着て、艶やかな黒髪は一つ結びにして右寄りに束ねている。瞳の色は弥生と同じく紫で、どこか毒々しい印象があった。住んでいる所もあり、より一層妖怪度が増している。
「まぁ良く来た。座れ」
「言われなくとも。それで、これ」
 弥生は持ってきた小説雑誌を那由多に手渡す。
「載ってたかい?」
「載ってた。八十七ページ」
 那由多は少々たどたどしい手つきでページをめくり、そこに書いてある内容に心底満足した表情を浮かべた。
「ふむ、特集とな」
「ちょっとした話題みたいよ。謎の小説投稿者〝那由多〟って」
「くく、良いじゃないか。おぉ、過去のもいくつか載せてあるのだな。これは良い」
 悪い顔だ、と弥生は素直に思った。
 那由多は素性をほぼ隠して小説を投稿しているのだ。今のネットに溢れた世の中じゃよくある話ではあるが、大抵の場合は話題になれば作者本人のレスポンスがある。那由多にはそれも無いため、謎が深まり大いに大衆の興味を引いている。
 その光景を俯瞰して面白がって見ているのだ、この女性は。
「今日は書かないのね」
「んあ、そっちが来たからね。ちょいと中断。ついさっきまでは延々書いてたよ」
 ほれ、と那由多は紙の束を弥生に手渡す。手動式タイプライターで打たれたばかりの紙は、触れると僅かにインクが滲んだ。気にせず弥生は内容を確かめる。
 意味の取れない大量のアルファベットの羅列が、そこにはあった。
「ふぅん、いつも通り。作品はまだか」
「天啓、というやつが湧かないとな。ただ只管打ち込むまで」
「これ、借りるよ。いつも通り」
「おう。読め読め。良いのあったら教えてくれな。あ、囲炉裏焚いてるから勝手に暖まってて。食べ物は勝手に食べて良い」
 そう言うと、那由多は振り返り、古めかしいタイプライターを打ち出した。手動式のそれは一行流れる事にベルの音が鳴り、レバー操作での改行を繰り返す。規則正しい打ち込み音が鳴り、部屋は妙に神妙としだした。
 弥生は余り気にせず、手元の紙へと目を向ける。書いてある内容からは一切の規則性は見つからない。アルファベットの母音と子音の偏りも無いため、殆どが読めない状態である。その中から、弥生は僅かにでも意味を見出そうと目を細めた。
「……ふむ。LINK、ARM……うーん」
 時折見つかる英単語を口に出しては、悩む。それは基本的に那由多が日本語にしか発想を湧かせないからであり、母音が絶対に必要なそれを探すのは非常に骨の折れる作業となる。毎回の事なので弥生はそれほど気にしてはいないが。
 何も見つからないままに一時間が経過した。那由多は未だタイプライターを叩き続けている。よく飽きないなと、弥生は片手間に焼き鳥の缶詰を食べながら、二十枚目の紙に手を付けた。
「……ん、MIYOSHI。三好、ねぇ」
「おい、三好と言ったか弥生」
 ぽつりと呟いた弥生の声に、那由多が敏く反応した。
「三好……あぁ、あ奴は全く。それで、そっから見つかったのか?」
「だね。もしかしたら零も見つかるかもね」
 そんな偶然があってもいいだろう、と探していくと、その五枚先の紙に〝REI〟の文字列を発見した。
 那由多はあからさまに顔を顰める。
「うえー、あ奴に目をつけられたら厄介だ」
「相変わらず嫌ってるね。良い人だよ、零」
「ないない。弥生もアレは止めとけ。気に入られたら最後、世界崩壊させてでも尽くしてくるから」
 大げさな、と弥生は笑ったが、那由多は非常に気に入らない顔をしていた。
 しばしの喧騒の後、那由多は何かスイッチが入ったかのように机に向かうと、引出しから原稿用紙の束を取り出した。
「お、書きますか先生」
「不服だが浮かんだ。書く」
「テーマは?」
「んー……本気で不服でたまらないけど……じゅ、純愛?」
「先生、ツンデレ?」
「済まない横文字は詳しくないんだ」
「横文字じゃないんですが。てか、声震えてますよ」
 五月蠅いと大声が飛んできたので、弥生はへらへらと笑った。ここ最近で一番面白い出来事だった。
 缶詰の残骸を片付け、紙束を纏めて棚に保管する。そろそろ一部処分しないと入らないな、と埋まりかけの棚を見ながら思う。囲炉裏の火は消すと暗いし寒いだろうと考え、そのままにしておく事にした。
「それじゃ、帰るよ。次いつ?」
「んー、まぁ一週間後にはできてる。余裕持って二週間か一ヶ月でもいい」
「餓死とかされても困るし、途中また沙娜寄越す。私は二週間後に来るから」
「死なん死なん。余計なお世話だ」
 可愛げのない、と弥生は嘯いた。那由多にはもう聞こえていないようであった。
 小屋を離れ、再び竹林へ。ふと見上げると満月。影ができるほどの明るさに、帰りは暗がりに迷わずに済みそうである。
 弥生は振り向かずに進んだ。振り向いたら台無しになると感じたから。
「……何やってんだろうね。私も、皆も」
 ありふれた日常を過ごしていた筈なのに、どうしてこうも幻想的な迷い道をしてしまうのか。理由は考えた所で人智の及ぶ筈もない。
 ただ、それが嫌いではない事だけは確かだった。
「そういえば、雑誌忘れた」
 竹林を出る頃に思い出した心底どうでも良い事に、弥生はある種の安心感を抱いていた。

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