小説:善と悪

知里弥生の無気力日和

「善と悪ってなにかしらね」

 薄暗い空間で緑茶を冷ましていた巫女――霧崎沙娜は、ぽつりとそう呟いた。
「なんじゃ、下らぬ事を考えるのぅ」
「下らなくないわよ。人間にとっては重要じゃない?」
 無彩色の巫女――三好零は呵々と嗤う。そうして、湯呑の中の濁った水を口に含み、飲み込んだ。
「そうじゃな、では問題を出そうかの」
「問題?」
 零は湯呑を置き、左手をくるりと返した。いつの間にかそこには複数本の竹籤が握られている。
「でた、お得意の籤」
「さて、そうじゃの。例えばの話じゃ。心臓病に苦しむ偉大な者がおったとしよう。彼が死ねばきっと戦争が起こるとか、重要な知識が失われるとか、そういうやつじゃ」
「臓器籤ってやつね。それじゃ善悪は判断できないわよ」
 うむ、と零は言った。沙娜は呆れた様子で籤に手を掛ける。
「例えばよ、この籤を引いたとして、そこに書かれていた名前が……そうね、偉大な医者とかだった場合」
「良くある仮定じゃ。お主ならどう思うかの」
「分からないわよ。そもそも、人間の命を天秤に掛けること自体が間違ってるわ」
 そうは言うがの、と零は制止した。目の奥は意地悪そうに光っている。
「もしも、もしもじゃ。引いたのが強盗を繰り返す男なら? 殺人を計画するテロリストなら?」
「そこなのよ。そうなると、この籤を引いた場合どうしても善としか思えなくなるわ」
 じゃろうな、と零は溢した。そして改めて手を返して籤を隠し、再度繰り返して再び握りしめた。
「ならこれならどうじゃろ。お主も予もこの籤の事は何も知らぬ。引いた結果も分からぬ。しかし反映される結果は変わらない。そうなれば、お主はこれを善とするかの? それとも?」
「それは……」
 答えに詰まった。そうだ、ただ籤を引くだけなのだ。その行為の意味が分からなければ、それで終了。
 これでは善悪など判断しようも無い。
「つまり?」
「簡単じゃよ。観測者がいない場合には、善悪は存在し得ない。ふむ、量子論に良いものがあろう」
「ハイゼンベルクの不確定性原理ってやつね」
 そう、実際は単純なのだ。観測しなければ善悪は判断できない。そして、観測する者のバイアスにより、それはどちらか一方しか正確には識別できないのである。
「さて、話を戻そうかの。沙娜よ、善悪とは何ぞ?」
「知らないわよ。私が生きてるのは善かもしれないし悪かもしれないし。観測者がそれぞれ判断するしかないわ」
「カカッ、その通りじゃの。まぁなんじゃ、言うなれば観測者の存在そのもの、それが善であり悪であるのじゃ。行為にはそれが反映されぬ。一体どこの誰が、宇宙の起源の善悪を判断するのじゃ?」
 零は茶色の粉末を取り出し、沙娜の持つ緑茶にさっと混ぜた。
「善じゃ」
「悪よ」
「もしこの行為が一切から観測されていない場合は、どうなるのじゃ?」
「誤魔化さないで、代わりのお茶を頂けるかしら?」
 つれないのぅ、と零は持っていた籤を袖に仕舞いながら言った。

 

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