小説:新月

知里弥生の無気力日和
私があの施設から逃げ出せたのは幸運だった。

走った。転んだ。隠れた。
追いかけてくる黒服の目をすり抜け、迷彩服の男達の手を避けた。
この日、月が出ていなかったのは僥倖であっただろう。

傷は無かった。無かったことになっていた。当然だった。
成長等無い。何も無い。真っ白で、真っ新で、無垢で、無だ。
気配を感じて、飛び込む。泥を頭から被り、擦り傷を負った。堆肥の臭いが鼻を刺すが問題ではない。捕まる事に比べたらほんの些細な事だ。
何者かの気配は通り抜けていった。
しばらくじっとしていた。虫の鳴く音が響く。傷は既にない。顔だけ上げて周囲を見る。
見渡す限りの田園の中に、ぽつんと建つ建物が見えた。
「……」
建物からは光が漏れている。部屋は複数あるだろうその建物の、一階だけだ。何者にも見つからぬよう、百足のように這った。稲の葉に擦れて幾度も傷ついたが何も問題無かった。
近付いて分かったがそこは宿舎のようなものだった。朽ち果てた手摺り、かろうじて形を保つ郵便受け、崩れそうな階段。
消えかけた看板には「岩木荘」と書いてある。
警戒しながら近づいていく。明かりの洩れる部屋の前に立った。

そしてこっそりと、扉を開けた。

鍵は掛かっていなかった。ギシ、と軋んだ音を立てて扉が開いた。
中は雑然としていた。少なくともそう見えた。
すぐに台所が見えた。洗濯機も見えた。というより、電化製品が一斉に出迎えてきた。
不思議な事に圧迫感は無かっただろう。そう感じている。
家主は居ないのだろうか。足音を立てないように進む。
そして奥の扉を、僅かに覗いた。
「……あ」
まず見えたのは紫色だった。
吸い込まれるような紫。毒々しい紫。
射殺すようにギラリと見えたそれは、ハッキリと見つめていた。
「誰」
「えと」
言葉に詰まる。どうしていいか分からない。状況としては明らかに、こちらにしか非がない。
逃げ出そうと思った。しかし足が竦んでいた。
目の前の人物は恐ろしかった。いや、恐ろしいモノに見えた。
赤茶けたボサボサの髪、毒々しい瞳、全体的に黒い服装。
蛇に、見えただろう。
逃げ出そうと思った。足は未だ竦んでいた。
そうして、私は転んでいた。足を縺れさせ、思い切り倒れていた。
「……大丈夫?」
何者かがそう言う。大丈夫だ。傷など問題無い。私は無で、白だから。

――あれ?

「痛っ……?」
「怪我してる。ほら、消毒するから来い」

何かがおかしかった。怪我など、しないはずなのに。いや、するにはするがすぐ治るはずなのに。
頭の中がぐるぐる回っている。分からない、分からない。
混乱の中、様々なことに気付いた。
身体が汚れている、お腹が空いている、喉が渇いている、全身が痛い、痛い、痛い。

「あ……あぁ……」
「ん」
「生き、てる……?」
「生きてる生きてる。水でも飲め」

蛇が手を伸ばす。蛇の手とは何だ。奇妙だ。有り得ない、有り得ない。痛い痛い痛い。

そう、この時初めて感じていた。

私は生きていた。
私――ノーラ=クロスティアと、蛇――知里弥生はこうして巡り合ったのだ。

無の、新月の夜の話。

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