小説:弾けて

知里弥生の無気力日和

※この小説はノンフィクションです。

深夜。ぼんやりとした靄のような光が昏い空に浮かび、昏いのか昏くないのかが非常に曖昧だ。逢魔が時をそのまま丑の刻まで持ってきたような、そんな印象。
「……全く」
周囲は田園だ。そうでなければ牛舎だ。背後を見れば、巨大な建物が聳え立っている。田舎の風景には大層似つかわしくないそれは、ぽつぽつと窓から灯りを覗かせている。
K大学である。残念なことに、そうなのである。片田舎の山奥に悠然と寝そべる縦長の建物が、過去に帝国大学とも言われた由緒正しき大学なのである。
溜息が出た。どうしてこのような場所にあるのか、と。
「考えても仕方ない。現状を見るべきだね」
両の手でしっかりと握りしめたハンドルを見やる。自転車だ。ごく普通の自転車だ。所々錆びており、塗装も大部分剥げかかっている。
そして、重い。
決して質量が大きいとか、そういう訳では無い。手ごたえが重いのだ。
押してみる。みしり、とゴムの軋む音がする。それでも構わずに押し続けると、まるで泣いているかのような摩擦音が深夜の空に響き渡る。
これは完全に駄目だ、と嘆息した。
大学の真反対を見た。これまた、昏い。遠方にぽつぽつと見えるのは住宅街だろうか。その光と自分の位置を大きく遮る暗闇は、田園だろうか。
仄暗い海のように見えた。
ミシミシと自転車の車輪が悲鳴を上げている。何とかならないかとハンドルを動かし、左右に揺れる。
倒してしまえば楽なのではないか、と思った。
簡単である。手を離せば良い。何もしなければ良い。放り出して、投げ出して、重力に任せてしまえば良い。
極論を言ってしまえば、二元論だ。どちらかに傾倒すれば良いのだ。それは、とても楽である。
正しいものは正しい、悪いものは悪い。それだけ考える事のどれだけ安直な事か。楽なのだ、これは。
「……よっと」
倒れそうになる自転車を何とか支えた。ふらふらと、自転車は立っている。
間に立つというのは、想像以上に労力が要るのだろう。自分の手の中ですらこれなのだ。もっと大きな事を支えるには、エネルギーが要る。
空を見上げてみた。やはり、昏い。しかし、光っている。星や月ではなく、光の靄。光害と呼ばれるものか。
「ふむ」
自転車を適当な街路樹に立て掛け、バス停のベンチに腰を下ろした。バスを待つ訳では無い。最終バスはとうの昔に走り去っている。
目を瞑った。そのまま意識が落ちそうになる。それは、困る。困るのだ。慌てて目を開けると、そこには草臥れた自転車が。
溜息が出た。
「……あぁ、嫌だ嫌だ」
嫌なのだ。あのミシミシと軋む音が。ふらふらと曖昧なハンドルが。
それでも、どうにかしなければならない。見捨てるわけにはいかない。持ち帰って、修理しなければならないのだ。放棄する訳にはいかないのだ。
立ち上がって、乗ってみる。ぐしゃ、と嫌な音が前輪から響く。
溜息しか出なかった。
「本当に、嫌だ」
のろのろと、坂道を下って行く。不幸中の幸いである。上り坂だったら死んでいた。
「それでも、嫌だ」
愚痴々々と、呟いた。聴くものは自転車だけだ。答えてくれる筈もないのだが。
知里弥生は自転車を押しながら、殆ど涙声で言う。
「どうしてパンクしたのよ、こいつは」

 

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