小説:古本屋

知里弥生の無気力日和

※この小説はフィクションです。

大きな竹林がある。
K大学の周辺である。これでもかと言うぐらい広大な竹林があるのだ。青々とした竹は天高く伸び、風に揺れてざわざわと騒ぎ立てる。
竹林の中は不明瞭であった。
こういった場所には噂話がつき物であって、当然この竹林にも様々な逸話が生まれた。それこそ、迷ったら二度と出られないというようなありきたりなものから、謎の女性が幻惑して入り口まで戻してしまうなど、出生が不明な噂もあった。
この竹林に入る者は殆ど居ない。理由は至極単純で、迷うからだ。
過去にK大学の学生が迷い込み、捜索願が出された事があった。その際には警察が出動し、捜索二日目にして発見された。発見された学生は何故かペットボトル入りの水と乾パンを手にしていた。
「迷っていたら落ちていた」
当時の学生はそう言っていた。
謎が謎を呼び一時は話題になったが、再度遭難者が出たことでこの話もぷっつりと途絶えた。
警察の世話にはなりたくないものである。
この竹林は、霧崎神社という由緒正しき神社の鎮守の杜だ。当然、そこの神主が管理者である。
「この竹林の中には古本屋がある」
これは、神主である霧崎啓志の言葉だ。これは本当で、航空写真などからもその存在が明らかになっている。
尤も、その古本屋に行く者は居ない。迷うからだ。
果たして今も経営しているのか、そもそもいつからあるのか、それは定かではない。
ただ、たまに何者かが竹林の中に本を運んでいるらしい。あくまで噂である。
そのような曰くのある竹林に、一人の女性が侵入した。赤茶けた手入れの届かない髪に、紫の瞳。知里弥生。
彼女はひたすらに斜面を登る。飄々と竹の流れをかわし、獣道を進む。その動きに迷いはない。
二十分ほど歩くと、竹の数が疎らになる。そのまま、進む。
突如、視界は開けた。
一つの空間がそこにはあった。ぽっかりと広がる平原のような、それでいて周囲を囲まれ、まるで牢獄のような、そんな印象。中央には古い木造建築。看板が張り付けてあり、「如月書店」と達筆な文字で書かれている。
建物の前には竹製の長椅子があり、そこに一人の男性が腰掛けていた。藍色の和服を着て眼鏡を掛けている。手にしているのは、和綴じの本。まるで遠い昔からタイムスリップしてきたような。
いや、この空間そのものが古風だ。ここだけ時間が経過していないのか。
男は弥生の存在に気付くと、柔らかい笑みを浮かべた。
「いらっしゃい」
「どうも。沙娜いる?」
男はぐるりと周囲を見渡し、首を振った。
「今日はいないね。何かご用かな?」
弥生は男に近付き、持っていたビニール袋を差し出す。
「これ、渡しといて。前のお礼に」
「ふむ、承知した。しかし珍しいね、君がお礼なんて」
別に、と弥生は言う。あの日は少しおかしかったのだ。
陳列してある書籍を眺めると、どれもこれもが古びている。和綴じと洋書の混ざり加減が、時代を感じさせる。
弥生はその中から一冊取り出した。
「……石燕」
「お目が高い。買うかい?」
「結構。ここで読めれば十分」
男の隣に座り、本を開く。おどろおどろしくて、そしてどこかコミカルな妖怪が顔を出した。
「今日、沙娜は来る?」
「連絡したら良いじゃないか」
「やだ」
そうかい、と男は笑っていた。
風が吹き、からからと竹のぶつかる音がする。近くに流れる小川の、水の音も心地よい。
「平和だね」
「平和さ、今も昔も」
「これからも?」
「さて、どうだろうね」
頁を捲る。妖怪だ。弥生は目を細める。どこか親近感が沸く。
その後は、何もない。ひたすらに頁を進め、風は延々と吹いた。変化というものは存在しない。
何時間が経っただろうか。
「おなかすいた」
「これ、食べるかい?」
「うん」
袋の中には、金つばが入っていた。
「緑茶を淹れてあげよう」
「ありがとう」
「ところで、これ。僕の分は」
「無いよ」
流石だ、と男は言った。
緑茶を受け取り、金つばを囓る。至福の一時である。
――できれば、一緒に食べたかったのだが。
「来ないな」
「連絡しなよ」
「やだ」
やがて、日が暮れる。夕日が竹の海に沈み、辺りは暗くなってくる。
「そろそろ帰る」
「足下気をつけて」
「沙娜によろしく言っといて」
本を片付け、立ち上がる。そのまま空間の外へと出る。
ふと、振り返った。
ぞわりと、空気が肌を撫でる。風の音が変わっていた。ひうひうと、耳に障る高い音。
店には、誰もいない。先程座っていた椅子には、誰もいない。金つばの入った袋だけが、その場にぽつりと残されている。
「……ふん」
当然のことだ。あの空間だからこそ、雰囲気は出るものだ。それを離れれば、ある意味必然である。
誰も居ない古本屋に小さく会釈をして、知里弥生は竹に紛れた。
ひう、ひう。寂しげな風だけが吹き荒んでいた。

続く。

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